…はい。すぐにさせてください。お願いします。
まず、子どもに読書をさせなければならない理由を、いくつか挙げてみましょう。
①語彙知識
何の勉強をするにせよ、語彙知識の不足のために、先生の話を理解できない、教科書や参考書の文を理解できないという状況では、新しい知識を身につけることができません。
そして、その新しい知識を身につけられなければ、さらに新しい知識を身につけることも当然できません。
そうして、どんどん遅れは生まれるのです。
②文章理解力
文章を読み、理解する経験が少なければ、当然、文章理解力は低いままです。
そして、そのような能力が低い生徒は、問題を解く際に「何を聞かれているか」、「何をどう答えるように求められているのか」を十分に理解せず、見当違いな答えを出すことが非常に多いです。
また、十分に文章を理解できないために、その負荷から逃れるために「こうであったらいいな」と無意識に考え、求められているものとは全く違うことを、自分では確信を持って答えるということも多く見られ、こうなってしまうと致命的です。
また①と同様、新しいことを理解することもできなくなっていきます。
③文章を読むスピード
勉強をするために本や参考書を読むにせよ、問題を解く際に問題文などを読むにせよ、文章を読むスピードが遅ければ遅いほど、様々な場面で不利になることは容易に予想できます。
当然、ある程度文章を読む機会がなければ、文章を読むスピードは上がりません。
④話(=知識)のストック
これは意外と皆さん意識していませんが、重要な要素です。
というのも、世の中に存在する言説というのは、内容もパターンもある程度決まっているのです(そうでなければ、円滑な意思伝達、情報伝達にかかる諸々のコストが高くなりすぎる)。
そのため、例えば、国語や英語の試験の長文などの内容やパターンも当然、ある程度の枠内で決まり切った形をとります(実際には、他の制限も加わることで、かなり決まり切った内容と形になります)。
その内容やパターンが、過去に自分が触れた文と同じ、或いは似ていれば、理解が容易になりますし、場合によっては、もう長文問題の本文を読まなくても問題が解けます。
また、新しいことを学ぶ際にも、本を読むことなどで得た自分のストックと参照することで、理解が容易になり、新しい知識などを吸収していきやすくなるでしょう。
⑤想像力
本を読む際には、書いてある文章だけでは足りない部分については想像しながら読み進めなければなりませんし、十分に理解できる内容である際にも、文章を通じ頭の中に様々なイメージを作っていくことになります。
そのような経験を多く持つことで得られる想像力は、単に勉強だけでなく、運動(自分の動きと他人や全体の動きの関連性の想像など)や芸術にも生かせるでしょうし、何より、普通に生きていく上でも重要なものです。
これに欠ける人間は、自分の行動が、他人も存在する「世間」や「社会」、「世界」という空間でどのような影響を持つのかということに思い至らず、存在が害悪と言わざるを得ない人間になってしまいます。
お子さんのことを思うなら、そのような人間にならぬよう、そして、できれば知的な人間となるように、指導してください。
⑥興味・関心の発見
人にはそれぞれの興味や関心があると考えられていますが、そのようなものは、何もしなくても見つけられるものではありません。
そのことは、小さい子どもを何もない部屋に一人で閉じ込めておくようなケースを想像すれば、容易に理解できるでしょう。その子どもが、何かに興味を持つことはないはずです。
つまり、何らかの知識や刺激を受けなければ、そして、そもそもその事自体について認識しなければ、何かに興味や関心を持つことはありえないのです。
そして、そのような知識や刺激、認識を得るには、読書がよいと考えます。それは、世の中には、様々な内容についての様々な視点・立場から、様々な人が書い た本が存在するためです。
多くの本を子どもが読むように導くことは、お子さんの様々な能力を伸ばすとともに、興味・関心を広げることに繋がるでしょう。
さて、上記①, ②, ③は、広い意味での「言語能力」にあたる要素ですが、人は言語によって認知・思考する存在である以上、言語に関する能力の差は、生涯にわたる知力の差となります。
また、言語能力は早く伸ばせば伸ばすほど、その能力を用いて様々な情報を吸収し、自身の内での再構築、そして発信へと至る機会がその分増えるため、早い段階でその能力の育成に取りかかるべきだと私は考えています。
しかし、「言語能力を伸ばす」ための具体的且つ即効的な手段というものはなかなかありません。
言語能力というのは、語彙知識、文法知識だけでなく、文のストックや様々な知識のストックまでを含むものであり、(少なくとも)それらストックは容易に身に付かないのです。
これに対し、読書はそのストックを含め、 言語能力を伸ばしてくれる手段の一つになります。
そのため、子どもに早いうちに読書の習慣を身に付けさせることが重要になるわけです。
ただ、読書は大事だからといって、保護者の方が選んだ本を子どもに押し付けても、よほど保護者の方にセンスがない限り、子どもに本を読む習慣はつきません。
大人でさえ、自分が「読みたい」と思わない本は、よほどの必要性がない限り「読めない」のですから、子ども自身が興味を持った本を買い与えるのが原則です。
(また、子どもは長期的な利益といったものを理解し辛く、現前の感情に大きく行動が左右されるため、大人以上に、本人の興味・関心に基づいて本を決めることが必要)
おそらく、初めの内は小説を選ぶことになるでしょうが、それで構いません。ライトノベルのようなものでも全く構いません。(もちろん、年齢が低ければ絵本で構いません)
そして、読書に十分慣れてきたタイミングで、小説以外の本「も」読むよう誘導しましょう。
誘導というと言葉が悪いかもしれませんが、子どもが外因なく小説以外の本を自分で選ぶことは、あまりないと思われます。
しかし、文や知識のストック、そして、「興味・関心の発見」という点からも、早めに小説以外の本を読むよう導くべきなのです。
ただ、「小説以外の本から好きな本を選らんで」と子どもに言っても、子どもは選ぶのに困るでしょう。
そのため、小説以外の本を買い与える場合には、レーベル等を指定して、その中から興味のあるものを選ばせることを薦めます。
例えば、「岩波ジュニア新書」や「ちくまプリマー新書」などは、子ども向けの学術系レーベルであるため、中学生以上であれば、子どもが読んで全く理解できない本というのはほぼないと思われますし、これらレーベルの本を読み出せば、一気に子どもの知的世界は広がっていくでしょう。
また、小学生にはやはり、子ども向けの図鑑や雑学書などがいいでしょう。
ただその際には、子ども自身の関心に”全てを”任せるのではなく、その時に話題になっているもの(新しい技術や発見、天体、生物など)を扱っているものも手に取るように誘導してあげてください。
あくまでも「誘導」であり、「強制」ではありません。結果として、それを選ばなくても構わないのです。
最後に大切なことを加えておきます。
それは、ある程度以上に文化的な行為を子どが行うかどうかは、親がそれを行うか(行っているか)否かに大きく影響される、 ということです。
例えば、親が何か楽器を弾いている様を子どもが幼い頃から見ていれば、自分も楽器を弾きたいと言い出す可能性が高いことは想像できるでしょう。
親がクラシック鑑賞を趣味としていれば、子どももクラシックに関心を持つ可能性が高く、親が野球をやっていれば、子どもも野球をする可能性が高い。親がチェスを嗜めば、子もチェスをやるようになる可能性が高い。
そして、親が読書を日常的にしていれば、子もそれを見て読書をするようになり、そして、親が読むような本も自然と読むようになる可能性が高い、というわけです。
一方、食う、寝る以外には、テレビを眺め、酒を飲む、そして休日はショッピングに行く、といった様しか親が見せていなければ、子どもはそれ以外の世界を家庭からは知ることができません。(自営業等でない限り、子どもにとって「労働」はあまりに遠い世界)
果てしてそれは子どものためになっているのか、一度よく考えてみて欲しいと思います。
確かに、子どもを育てるために、色々な苦労があることも分かります。
しかし、子どもを産み、ただ生物学的に大きくさせるだけなら、動物でもできるのです。
子どもを「人として」育てたいという思いがあるならば、親も「人として」振る舞い、それを子どもに見せる必要があるのではないでしょうか。
子どもが(特に小さいうちは)、自力で接触できる世界というのはかなり限られています
大きくなれば、ある程度自分の意思で様々な世界に触れることも可能になりますが、それまでの間、その世界に触れていなかったという事実と、その間に養成され得た諸能力を獲得できなかったという事実は覆せません。
そして、保護者の方は理解できるかと思いますが、大人になってから獲得できるものにも限りがあります。
有限な人生と、有限な幼少期を実り豊かなものにするよう導く(強制してはいけません)ため、様々な世界に触れる機会をお子さんに持たせてあげてください。そして、その中からお子さんが何かを選ぶことを待ち、可能な限りそれを尊重してあげてください。