これまで私が担当してきたのは、主に学力中・低位の生徒であるが、その中にも伸びる生徒と伸びない生徒がいる。いや、この「伸びない生徒」というのは、 「(ほぼ)全く伸びない生徒」と言っていいだろう。
そのような生徒の学力が伸びない原因には、知能指数などの点でハンデがある生徒もいたし(但し、中には特定領域で伸びる生徒もいた)、もちろん私の指導力不足の面もあるだろう。
しかし、私の指導経験上、学力が伸びない生徒にはある程度共通する性向を観察できる。
そのような性向というのは、生徒の過去十数年の人生において築き上げられたものであり、日々の生活においてさらに強化され得るものであるため、週に1度の短い時間でそれを取り除くことは容易ではない(そういった生徒は元々の学力が低いので、科目内容を教えるだけでも時間が足りない)。
そのため、本稿においてその共通して観察される性向を示すことで、子どもがそのような性向を持つことを避けるよう、保護者の方に家庭で接してもらえるようにしたいと考えるのである。
なお、本稿においては、文量の関係から、特に酷い影響を持つ性向2つに絞って記述する(追加する可能性あり)。
もちろん、以下に述べるのは、あくまで「学力が伸びるか否か」という観点に基づくものである。しかし、そのような性向をもつ生徒が、そのまま歳を重ねていったらどうなるか想像してもらえば、「学校での勉強」に問題は留まらないことは分かっていただけるだろう。
未だ「学校での勉強なんて役に立たない」とい う声も巷では聞かれるが、その言葉の意味を、それが言われる背景と共に、今一度考えてもらいたい。
①方法を改めない
学力が伸びない生徒に一番よく見られる性向である。
現状、ある方法により物事にあたって上手くいかないのであれば、採る方法を変えてみるのが、(効率的とかいう次元を超えて)当然の選択肢だろう。新たに採った方法の良し悪しは、それを試してから考えればよい。
しかし、学力が伸びない生徒というのはほぼ総じて、「出来ない自分」が今持っている方法、つまり問題などを解くことが「出来ない方法」を改めようとしない。
ある程度以上の学力の子どもを持つ保護者の方には想像がつかないかもしれないが、いくら単純で使いやすく、正確で間違いの生じにくい方法を、それを使う手順まで示して教え、実際に問題を使い、生徒に質問をしながら説明しても、絶対にそれを使わない生徒が、世の中には一定数いるのである。
(そういった生徒は、スポーツの成績なども悪いことが多い。当然だろう)
はっきり言って、このような生徒の指導は困難を極める。とにかく、新たな優れた方法を採らせることで何度か成功体験を積ませ、悪しき方法に執着することの愚かさに気付かせられればいいのだが、そこまで至らない生徒も多いのである。
このような性向を持つ生徒が中・低位に一定数見られるのは、生徒が優しい世界に慣れ、そこから出る気もないからだと私は考えている。
「個性」が大事だとかいう風潮の下、そもそも個性という「差異」が有意な形で発生するほどの、前提としての知識や体験がない段階で手放しにされ、その手放しの状態から、自分は努力して何かを得ることをしなくてよく、自分はただ優れている存在なのだと勘違いして育ってしまう。
そして、自分に出来ないことがあったとして も、それは自然なことであり、ただじっとしていれば、誰かが自分を引き上げてくれると無意識レベルで信じるに至る。
そのような子どもが形成するのが、この性向なのだろう。
要は、根拠のない、「過剰」で「内省されることのない」自信の過剰である。
さて、子どもがこのような性向を持つに至るのを避けるには、(ある程度の年齢になったら、)上手くいかない物事に対し、「現在の自分が採っている方法の把握」をさせ、「その方法の問題点」、「問題点を解消するための新たな方法」を考えさせる機会を多く作るとよいだろう。
こう書くと難しいことに思えるかもしれないが、そうでもない。
例えば、私が小学生の算数の授業を担当していた際には、筆算までしても掛け算の答えを頻繁に間違う生徒が複数いた。そして、その理由は主に、自分で認識できないほど字が汚い・小さい、位が揃っていないために、最後の足し算の段階で間違える、そのどちらか、あるいはその両方であった。
これを家庭において指導するのであれば、まず、子どもになぜ計算を間違ったのか、計算を1か所ずつ確認させ、どこで間違いが生まれたのかをまず把握させる。その上で、なぜその間違いが生まれたのかを考えさせ、ではどうすればそのような間違いがなくなるかを考えさせるのである。
この場合には、字を大きく、綺麗に書くようにしたり、位がずれないように書くようにすればいいのだが、ただそれに思い至るだけでは足りない。それが自然にできるよう、しばらくは大きなマス目のノートを使い計算をしたり、筆算に最初から位ごとに縦に線を引くなどまでする必要があるだろう。
最初は子どもがそのようなところまで思い付かないことも多いだろうが、その際に保護者の方がそれを示すことをしばらく行えば、問題解決のパターンを子どもが理解できるようになっていく(ある程度その段階にまで至ったら、今度は保護者の方が不用意に示さないようにした方がよい)。
あるいは、これは別に勉強に限るものではなく、スポーツなどを通じて身に付けさせることも可能である。むしろ、スポーツなどを通じての方が、子どもは理解しやすいかもしれない。
例えば、短距離走が遅いのであれば、現状、自分はどのように走っているのかを(その場で)再現させ、そして、どこをどのように改善すれば速く走れるように なるか考えさせる。
その際には、走るのが速い他の子どもと(子ども自身に)脳内で比較させるとよいだろう。
スポーツであれば、そのような方法の改善の効果を、子どもでも実感しやすい。さらに新たな方法を考えることにも繋がりやすいだろう。
さて、このように書くと、これは大人であればある程度当たり前のものとして、無意識にやっていることだと気付くだろう。
しかし、疑いようなく子どもは大人と違う。大人が自然とやることでも、子どもには意識的に身に付けさせる必要があるのである。
②話を聞かない
次の性向は、「話を聞かない」である。
これは、いわゆる「言うことを聞かない」(言った通りの行動をとらない)とは違う。
ここでいう「話を聞かない」とは、「その生徒に向けてしている話自体を、そもそも聞かない」ということである。
これも、多くの保護者の方には信じられないことだろうが、学力が伸びない生徒には多く見られる性向である(学力が伸びる生徒でこのような性向を持つ生徒は、ほぼいない)。
何か他のことをしているために、結果として話を聞いていないのではない。「ただ話が過ぎるのを待っている」のである。
このような性向が生じるのもやはり、①で述べたように、生徒が優しい世界に慣れ、そこから出る気もないからだろう。
何か新しいことを苦労してまで身に付けたくない。そんなことをしなくても、誰かが自分を引き上げてくれる。だから今はただ、この時が過ぎるのを待つ。そういう内部状態なのだろう。はっきり言って、子どもにして既に(自己検閲)である。
これが危機的な性向なのには、異論がないだろう。
しかも、これを改善するのはかなり困難である。
それは、もはや何を言っても無駄な状態に至っているからであり、本当に最悪な性向なのである。
そのため、そのような性向を身に付けさせないことが、何よりも重要になる。
まずは、①で挙げた方法を使うと、①の性向を避けることもできるのでよいだろう。
新しい方法を考え、それを実践していく重要性を認識できれば、今の自分の方法が絶対的なものではないと考え(根拠のない、「過剰」で「内省されることのない」自信の過剰を避け)、人の話を聞くことが出来るようになると考えられる。
また、他の方法としては、保護者の方の話や、本・テレビなどでなされる話について、「要はどんな話なのか」と聞き、それに答えさせることも有効だろう。
話を簡潔にまとめるには、話の内容の(自身の内での)反復を必要とする。そして、この反復により、その過程で話の内容をより理解できるだけでなく、人の話に含まれる情報の有益性などに気付く機会を増やすことができるのである(人の話を理解できるという実感もまた、人の話を聞く姿勢に繋がるだろう)。
また、「要はどんな話なのか」と聞き、話の内容を簡潔に理解させることは、「読解力」を高めることにも繋がる。この読解力の低さも、学力が伸びない生徒にかなり多く見られるため、ここで取り上げた方法もまた、学力が伸びない別の要素も解消することができるものだと言えるだろう。
(読解力の低さは「性向」とは言えないので、本稿では取り上げなかった。読解力については、「読書はさせるべきか」のページを参照)