「『言っても勉強しない』への対策」のページの作成に合わせ、こちらの項目にも内容を付け加えておきます。
直下の本文の内容はおよそ一般的なものではなく、ショック療法的な言説となっているため、その後に、もう少しソフトなものも載せました。参考になりそうな方を、参考にしてください。
今も昔も、中学生・高校生には「なぜ勉強をしなければならないのか」と疑問に思う生徒は多いようです。そして、そのような疑問を持つだけならいいのですが、その答えが分からずに勉強への意欲を失う事態にまで陥ると、やはり問題があります。
私も塾講師、特に個別指導を中心に講師を行っていることから、そのような疑問を持ち、且つ、それを消化できない生徒の担当になり、そのような生徒でも勉強に向かえるよう話をしたりしなければならない、面倒な状況になることもあります(こういった点では、集団授業中心の講師の方が随分楽です)。
勉強をしなければならない、或いはした方がよい理由というのは巷に数多く存在し、それは、「『勉強の仕方』を(中学・高校の勉強を通じて)理解し、身に付けるため」、「あらゆる分野の『理解の基礎』を築くため」といったものから、「自身をよりよい環境に置くためのパスポートを得るため」、「人からの評価という観点から見た、一番明白、確実な武器を得るため」といったものまで様々です。
それらの多くは正しいものですが、優しく、明るく前向きなものばかりでもあります。
しかし、勉強の出来ない生徒というのは、「優しい世界に慣れ、そこに閉じこもっている内に周りから遅れを取っている」子が多いと日頃感じており、そのような優しく明るい言葉だけでは効果のない生徒もそれなりにいるだろうと思います。
そして、そういった生徒には、親や(現在の)学校の先生は言ってくれないことを言う必要があります。
そこで私がよく話す内容は、「学校の勉強さえ出来ずに、何事かをやり遂げることが出来るのか。そのような特別な才能が君にあるのか。」といったものです。
これだけではよく理解できないでしょうから、大抵は次のような内容を続けます。
理解しなければならない内容は授業という形で与えられており、教科書や問題集もそれに対応したものが与えられている。テストにおいては、何が出来なければならないのかを事前に示されている。
このように何もかも与えられている状況で、何も出来ないのであれば、学生という環境から出た後に、どうして何事かできるだろうか。
社会においては、理解したり覚えたりしなければならないことを、誰かが付きっきりで四六時中教えてくれたりはしない。
また、自分が試される機会も多々あるが、それがいつどのような形で訪れるのかは分からないことが多い。
そのため、常に自分で、何を学び、どのように行動すべきなのかを考えながら生きていく必要がある。
そういったことが必要ないのは、特別な才能がある者だけだ。誰にも勝る、他の欠点を全て打ち消してしまうような特別な才能の持ち主だけだ。
君はそのような才能の持ち主なのか。いや、おそらく違うだろう。今こうして僕の話を聞かされている時点で、君は特別な存在ではない(可能性が高い)。
「勉強ごとき」をこなせず、どうするというのか。
いつまで優しい世界に閉じこもっているのか。いい加減目を覚ましなさい。
といったところでしょうか。
もちろん、広く一般的に受け入れられる内容ではないと分かっているし、何事にもすぐ打ち拉がれるような生徒には言わないようにしていますが、時にはこのような「負の力」を引き出すような内容も必要でしょう。
なお、こういった話をすること自体、正直面倒であり(本来、塾講師は各科目の指導をすることが仕事なはずであり、また、それが求められているはず)、後に親御さんと(私と)のトラブルに繋がったりすると更に面倒になるため、それらを考慮しても話す価値があると思える生徒にしか語らない内容です。
ただ、このような場で文章の形で提示すれば「取捨の判断」が可能でしょうから、ここに書き記しておくので、参考にしてください。
なお、誤解のないよう付け足しておきますが、以上の内容は「中学、高校での勉強」についての話であり、「学問」については念頭に置いていないので、悪しからず。
—-以下、追加部分—-
そもそもなぜ子どもが勉強をすすんでしないのかを考えると、「つまらないから」「楽しくないから」「辛いから」「勉強よりも楽しいことがあるから」という 「現在の快・不快」を元にした意識的、無意識的な判断の結果、「勉強をしない」、あるいは「勉強以外のことをする」という選択を(意識的、無意識的に)している、というケースが大半だと思われます。
しかし、「楽しくないからやらない」「辛いからやらない」というのでは、動物と大差ないのではないでしょう。とても知性があるとは言えない(躾けられれば犬などでさえ、決して快の刺激を得られないであろう行動を反復、継続して採るので、「犬にも劣る」と言える)。
そこで、私は学習意欲が低く、且つ結果も出せていない生徒には以下のように言うことが多い。
まともに生きようと思えば、今後の人生でも、嫌なこと、面倒なことをやら なければならない場面なんていくらでもある。
それを無視して、ただ過ぎるのを待っているだけで生きていけるのは、幼稚園くらいまでだけだ。
でも、やはりつまらないことはつまらないし、面倒なことは面倒なわけだ。
ならば、少ない努力で結果が出せるように、頭を使え。
結果を出せない人間は注意もされるし、文句 も言われる。もちろん、人に評価などされない。
だが、結果を出す人間は、よほど非道徳的なことや法律に反することをしない限り、好きなことをしていても文句など言われない。
だから、いやなことや面倒なことこそ、いかにして少ない努力で結果を出すかを常に考え、色々な方法を試すんだ。それが賢い人間ということだ。
誰にも文句を言われず、好きなことをしていたいのなら、少ない努力で結果を出すように頭を使いなさい。
こちらの方が、大分ソフトなものとなっているでしょう。
現に、経験上、こちらの内容であれば、生徒に話せば理解される場合が多い。
そして、以上のような、「つまらないことや辛いことこそ、少ない労力で効率よくこなす意識、能力」は、人生においてずっと役に立ち続けるものでしょう。
そのような意識、能力を身につけることが、高校生までの学生が勉強をするべき理由の1つなのです。
そもそも高校生くらいまでは、勉強ができるか否かは、有効な思考のパターンや、効率のよい勉強の方法をどれだけ理解できているかに依るところが大きい(もちろん言語能力の存在が前提)。
しかし、そういったものを生徒が教わる機会というのは、よほど恵まれた環境に生まれ、育たない限りは少ないでしょう。そして、知らないモノは考え得ないように、有効な思考のパターンや、効率のよい勉強方法について知る機会がこれまでなかった生徒は、そのようなものについて自分で考える機会も持てない。そして、必然的に非効率的な方法を採り続けることになり、努力をしても結果が出ないという事実が積み重なっていく。
昨今、巷では「成功体験を積ませる」というフレーズが流行っているようですが、方法論の改善なしに成功体験を積ませていっても、結局は自力では結果が出せないまま、結果が出ないという事実がまた積み重なっていくだけであり、状態はさほど変わらない場合が多いだろうと予想できます。
だからこそ、上記のように、方法論を意識させた上で、優れた方法をいくつか提示し、それを自身で改善しくような姿勢を身に付けるさせることがまず重要なのではないでしょうか。
少なくとも、私はそのような考えの下、上記のような言説を担当生徒に語っています。